燃え尽き理系学生の思考帳

頭を使わないと衰えてしまいそうなので、思った事をつらつらと書いてみます。

科学は究極の「無駄」であり…

今、日本の科学が危ない!

 日本の研究は、今まさに崖っぷちである。

 具体的な数字を言えば(古いデータで申し訳ないが)、1993年度の米国における医療研究予算は約1兆円、それに対し1995年度の日本の同研究予算は約1000億円である。もちろん、年度が違うのでズレは生じるであろうが、大きな関係性は変化しない。

 ソース不明ではあるが、ips細胞の研究に用いられた費用は米:日=60:1なんていう話もある。これが本当だとしたら、日本の研究はアメリカに追いつけるはずもないし、おそらく中国に追い抜かれるのも時間の問題である(もう抜かれているのかも)

 

 「でも研究、特に基礎研究がなくなっても、明日の夕飯が食べられなくなるわけでもないし…」、そう思う人、気持ちはわかる。でも、そう思う人こそ、ぜひ次の項を呼んでほしい。

 

科学は究極の「無駄」であり「人間的活動」である

 そもそも科学やそれを支える研究は往々にして「無駄」なのである。

 別に重力の正体がわからなくても、生命の起源が分からなくても、素数の数が分からなくても、生きていくのに何の影響もない。

 医薬品や電気系統だって、原始時代の人間が生きていられたことを考えれば必要がない。もちろん、これらにネイティブな僕たちにはなくてはならないが、人間という種が続くうえでは必需品ではない。

 では、なぜ研究して科学するのか。それは、特に基礎研究にいては「知りたい」、この一点のみだ。そして、この好奇心こそが、人間を人間たらしめているのだと思う。

 今日と同じ生活を明日もするためには、おそらく研究はいらない。でも、身を削って研究をするのは、やはり「知りたい」からなのだ。

 そして、この「知りたい」から明らかになったことが、「使える」かもしれなくて、「便利」になるのだ。

 何を言いたいかわからなくなってきたが、つまり研究は「面白いからする」のであり、その面白さをわかってもらいたいのだ。

 

つまり何が言いたいのさ?

 駄文で申し訳ないが、つまり何が言いたいか。

 それは研究は象牙の塔であってはならないということだ。

 国は産学連携と言って、事業者と研究を結び付けようとしているが、これだけでは足りないし、この方針では基礎研究に意味がなくなってしまう。

 だからここで僕は「産学民連携」の科学をとなえたい。つまり、「この研究面白いから、少しお金出そうかな」という窓口を作りたいのだ。

 この、民間の少額投資の可能性を少し話したい。

 少し前に聞いた講演会で「500億円あれば、宇宙に生物がいるか、状況証拠から結論に近いものを得られる」という話を聞いた。

 500億円は一目大きな金額かもしれない。しかし、日本国民が昼食に食べるほっと〇っとのお弁当を我慢すれば、この研究の資金が賄える。そう考えれば、案外安くないだろうか。

 だから僕は「産学民連携」を唱え続けるし、信条である「科学×厨二心」を叫び続けたい。

 

 500円で地球外生命体と挨拶できる、そう考えると研究って素敵じゃない?

生物学、ひいては科学の超えられない壁

 生物学の論文では基本的に以下のような流れで現象の説明がなされる。

「ある処理を行ったA群と対照群であるB群を比較

 →A群とB群との相違を比較→その相違はある処理により起こされた」

だいたいこんな感じである。

 

 一見すれば何の矛盾もない。しかし、本当にこの因果性は語れるのであろうか。

この時に生物学がぶつかる壁、それが「リアルタイム性の壁」である。

 こういった生物学的研究においては、その解析は通時上における連続しない複数点において行われる。どういうことかと言うと、4週間前の状態と今の状態の間に起こる出来事は認識されない、という事である。

 

 もちろん、このピンポイントの間隔をなるべく狭めていくことで連続性に類似いたデータを確保する事は可能である。しかし、それではその生体の中で1分1秒何が起きているのかをとらえることはできない。

 このような反論もあるだろう。生物のバイオパラメータ、例えば呼吸数や血圧などを継時的に記録すれば、十分にその生物に起きている事象を捉えられているのではないか。

 確かにこの理論は、科学者が信じ込んでいる「ある前提」が正しければ間違いない。

その前提とは「そのパラメータはその生体内で起きている目的とした現象を反映している」というものである。

 僕は、この前提が絶対であるとは思えない。つまり、どれだけ多くのデータを集めようとも、その現象を視認できるレベルに落とし込んで確認しない限りは、起きている現象を把握したとは言い切れない。

 ここでいう視認とは、カメラによりある現象が起きた映像を録画するという事ではない。リアルタイムにその現象が起きている状態を、器具用具の干渉をとりのぞいて把握する事である。

 

 ここまで述べたことはただの屁理屈であるかもしれないし、こんなことはとうの昔に唾棄された問題であるのかもしれない。しかし、生物学、メタ世界論(こういうワードを出すが、僕はスピリチュアルに肩入れしているわけではない)に拡大すればあらゆる学問において、このような地盤の不安定さが残っている事を頭に留めてはどうだろうか。

 …メタ世界論についてはゲーデルの定理に準じているので、よければ「ゲーデルエッシャーバッハあるいは不思議の環」という本を読んでみてほしい。

生物学的な死亡状態とは

 生物学の実験をする際、対象の動物を頚椎脱臼などの方法によって死亡させてから解剖する事がある。

 そんな時にふと考えていたことがある。

「もし頚椎脱臼したこのマウスの神経をこの瞬間に修復したら、マウスは生きるのか」

言い換えるなら「生存と死亡は可逆状態にあるか」ということである。

 ある生物が死亡状態に入った場合、その生物は全細胞単位において死亡状態に入るのか。死んでからも幾分の時間は、細胞は生存状態にあるのではないか。つまり、死亡状態に突入したあとの刹那、その生物は「死んでいない」のではないだろうか。

 そういうことを考えると、世間一般が生と死を完全に可分な状態として考えていることに、強い違和感を覚える。

 生と死の間には生きているとも死んでいるともつかないマージナルな状態が存在している、そしてそのマージナルな状態では実は外的影響によって、どちらにも転ぶことができるのではないだろうか。

 しかし、このマージナルな状態の中に必ず生と死を分ける一点が存在するのである。そうでなければ、世の中には「死ぬ」という概念が生まれえない。

 うーん…何とも難しい。この、いわば「生と死の完全なる境界点」、または「生死を分ける閾値」を生物学は解き明かすことができるのだろうか。この点、またその点の周囲で起こる生化学的挙動をとらえることができるのであれば、それはもしかすると様々な病気による死から人々を救いうるのではないか。

 「死の生物学」、もし再び学問の戸を僕が叩くことがあるならば、前のエントリと加えて研究してみても面白いかもしれない。

 すくなくとも今は思考実験の域を出ない。

不連続性は「モノ」を統合しうるか

 昔、シュレディンガーが記した「生命とは何か」という本を読んだ。

もう数年前の事なので詳しい内容は間違っている点があるかもしれないが、記憶では

量子力学と生物学には不連続性という共通項が存在する」

という内容だったと思う。

 シュレディンガーが生きていたころは、まだ遺伝子がタンパク質だと思われていた時代なので、細かな描写には明確な間違いも多くあったが、内容としては非常に面白かった。

 そこで最近思うことがある。上に述べた内容に近いが、

量子力学と生物学、その他の学問における不連続性を統合しうる法則があるか」

または「不連続性という共通項によって種々の学術領域は統合されるか」

という事だ。

 

 たとえば、遺伝子におけるSNP(一塩基変異)を考える。

ある遺伝子内の塩基対を変異させる際に、放射線などの外的エネルギーが働く。この時、変異させるのに必要なエネルギーをE1とする。

また、あるところでは原子軌道について考える。

 例えばs軌道に入っている電子がp軌道に移動する(励起)の際に必要なエネルギーをE2とする。

 この時、E1=kE2となるkが存在するのか、またそのkはどのようにしたら求められるかという事である。

 もちろん、どの原子に着目するかやどの遺伝子について考えるのかなど、理論とも呼べないほどガタガタな思考である事には間違いないと思う。

 しかし、考えるに値しない仮定であるとも思えないのである。SNPに限らずとも、生命は高次的になれば、その増殖方法が不連続性をもつ。無性生殖と有性生殖を考えれば、イメージは付きやすいだろうか。

 そういえば記憶の片隅、間違っているかもしれないが、結晶構造内の理想的な電子分布はフラクタルのようになる、なんて話も聞いた覚えがある。

 

 こういうことを研究してみたいものだが、今の僕では幾分力不足なので、そこのあなたにぜひ考えてほしい。